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あれから1ヶ月…≪東日本大震災・その1≫

1ヶ月ぶりの更新です。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

地震の直後にこちらで無事を報告してから、本当に色々なことがありました。何から書いてよいか、なかなか気持ちも定まりませんが、近況報告させていただきますね。


●3月11日のこと

あの日、茨城県南部はよいお天気でした。午前中、私は、自転車とコミュニティーバスを使い、市役所へ「住基カード」の受け取りに行きました。最近は、自動車免許やパスポートを持っていないと、銀行口座開設はもちろん、レンタルビデオ店の会員にもなれないんですよね。

帰りに最寄のヨーカドーで買い物をし、ママチャリの前後のかごに食品をたくさん積んで帰宅しました。春休み中の息子と昼食をとり、2階の自室のPCで「名探偵ポアロ」のDVDを観ていたとき、突然グラグラッと来ました。

はじめは、またいつもの地震かなと思ったのですが、どんどん揺れが酷くなってきます。振幅の大きな横揺れでした。ベッドをソファ代わりにしていたので、頭から布団を被って備えました。目の前のPCデスクや机が、ずずずーーっという感じで1m近く動き、本棚から本がなだれ落ちるのを呆然として見ていました。

恐怖というよりは、ついに来る時が来た…という感じでしょうか。その時点では、私は、首都直下型か東海地震だと思っていました。

市の防災無線では、「震度6以上の地震がありました。テレビ・ラジオをつけ落ち着いて行動してください。火の始末をしてください」と繰り返し放送しています。震度6なんて、起震車でしか経験がありません。

見ると、PCがまだ稼働したままだったので、揺れが収まってから慌ててTVをつけました。息子も揺れが収まると、私の部屋にやってきました。「俺の部屋、すごいことになってるよ」が第一声。

電話は、携帯も固定電話も全然通じないので、携帯メールとPCメールで、とりあえず夫に無事を知らせました。(届いたのはずいぶん後のようでしたが)都内の実家にかけても、電話はまったく繋がりません。TVの地震速報により、震源は東北沖だと分かったので、たぶん実家の方が被害が少ないだろうと、少し安心しました。

1階に下りてみると、冷蔵庫や家具が移動し、食器棚にあるクリスタルのワイングラス類がほぼ全滅。床はガラスの破片だらけ。トイレや階段の照明も、ガラス製だったため落ちて割れていました。(トイレに入っていなくて良かった!)

被害を確認して2階に戻ると、携帯に何通か安否確認のメールが届いていました。阪神大震災を経験した友人から「余裕があったらお風呂に水を溜めて」とあったので、とりあえずガラス類を片付けて、全部の鍋とやかん、浴槽に水を溜め、ご飯も5合炊きました。

そのうち、水道の水の出が悪くなり、防災無線で断水を知らせるアナウンスがありました。後から知ったのですが、我が家は大丈夫だったものの、市内ではかなりの家で停電していたようです。全壊・半壊した住宅も。でも、その時点では、外のことは全然分かりませんでした。

幸い都内同士では電話が通じやすかったらしく、実家で一人暮らしの母の無事は、夫が確認してくれました。

その後のことはよく覚えていません。
津波が街や畑を飲み込んで行くTVの映像に呆然としながら、とんでもない大災害が起きたということだけ認識できました。

その日は、深夜までずっとTVをつけっぱなしでした。津波の映像の次は、火災、そして都心から郊外に向かうJRや私鉄の運行停止による大量の帰宅難民。アナウンサーが「無理をして帰らないでください。泊まるところがある方は留まってください」と繰り返し言っていましたっけ。

港区で勤務している夫も早々に帰宅を諦め、会社に泊まることになりました。同じ部署(約30人)で帰宅したのは、一人だけだったそうです。食事は会社で備蓄していた非常食(水でふやかすピラフ)を食べたとか。

夕食は、冷蔵庫に前日の残りのコロッケがあったので、とりあえずご飯と一緒に食べました。すでに水は一滴もでなくなっていたので、阪神大震災の体験談で聞いた「お皿にラップ」が大いに役立ちました。お風呂に入れないので、お湯を沸かして(ガスも自動停止しましたが、自分で復旧しました)タオルで身体を拭きました。

でも、まだまだあれは序の口だったとは……。
大小の余震が続き、不安な一夜を過ごしました。

翌朝の新聞(と言っても届いたのは午後でした。今から考えると、道路も鉄道も寸断されていたのにどうやって届いたのだろうと不思議に思うほど。)には、私の住む茨城南部は震度6強とありました。



長くなりそうなので、今日はここまで。
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